府中郷土の森博物館 復元建築物(学校)
高等小学校
寺子屋
近代教育
国定4期
国定5期
暫定教科書
検定教科書
高等小学校(外観と正面玄関)
1935年~1978年(昭和10年~昭和53年)
1935年(昭和10年)に建てられた府中尋常高等小学校の校舎の中心部分を復元したものです。
当初は、教室35、特別教室4、来賓室・応接室・職員室各1が大きなコの字形に配置され、
延べ床面積は6,270m2(1,900坪)、北多摩郡随一の規模と言われていました。
戦争中は府中国民小学校、戦後は府中第一小学校と校名は変わり、1978年(昭和53年)に、
新校舎建設の為、解体されました。
その後、1983年(昭和58年)に、この地に復元され、教育資料展示室・詩人村野四郎記念館・
多摩川ふれあい教室として活用されています。
寺子屋の時代(庭訓往来・5玉算盤・2階廊下と衛生室)
1630年~1871年(寛永7年~明治4年)
寺子屋における教育は、「読み・書き」が中心であり、「いろは」などの基礎的な段階が終了すると、
「往来物」を中心とするものに進みました。「往来」とは、手紙のやりとりという意味で、
毎月の手紙の書出しを例示した、「庭訓(ていきん)往来」や「商売往来」・「隅田川往来」・「百姓往来」
などが寺子たちの必要に応じて使用されていました。
この他、道徳的な教材として「実語教」・「童子教」、女子むけに「女大学」・「女小学」などが使用され、
また算術の教科書としては、「塵劫記(じんこうき)」などが使用されていました。
このような教科内容を修了すると、さらに高度な「四書五経」などに進みました。
近代教育のはじまり(小学読本・オーディオレコーダー・教室)
1872年~1902年(明治5年~明治35年)
1873年(明治6年)に文部省が編さんした最初の小学読本は、大部分がアメリカの国語教科書を直訳したもので、文章も直訳調でした。
そのほか、福沢諭吉の「学問ノスヽメ」などが使用されるなど、教科書が自由に採用され、使用されていました。
しかし、「教育令」に続いて「小学校令」などの法令が公布され学校制度が整ってくると、教科書の使用についても制度化が進められました。
1881年(明治14年)には、小学校で使用する教科書を届け出ることになり、教科書の使用にあたって、文部省の認可を受けるようになりました。
そして、1886年(明治19年)の「小学校令」の公布とともに教科書検定制度となり、国定教科書制度へと移ります。
「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」国定4期(国定4期教科書・ダルマストーブ・講堂)
1933年~1940年(昭和8年~昭和15年)
1933年(昭和8年)から使用されることになった第4期国定教科書は、内容の挿絵などが色刷りとなり、セピア色の表紙で、
「サイタ サイタ サクラガ サイタ」ではじまる国語読本や、青表紙の修身教科書が出版され、新鮮なものとなっていました。
しかし、国語読本には「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」の一文が載せられて軍国主義が鼓吹され、修身の授業では
「国体観念」が、強調され、また、歴史では元寇の暴風が「神風」と呼ばれるようになりました。
このように、教育においても国民に対する戦争への精神的な準備を行いながら、国定5期の教科書へと続いていきます。
「アカイ アカイ アサヒ」国定5期(国定5期教科書・跳び箱・足踏みミシン)
1941年~1945年(昭和16年~昭和20年)
1941年(昭和16年)に改訂された教科書は、戦争色が色濃くなりました。国語の教科書の「ヨミカタ」では
「アカイ アカイ アサヒ」ではじまり、続いて「ヒノマル ノ ハタ バンザイ バンザイ」とあります。
そして、算数の教科書では戦闘機や戦車での数の数え方を覚え、修身教科書では「神国」であるという考え方が教えられました。
また、歴史教科書でも神話からはじめられ、図画の教科書では「防空演習や「隣り組」の絵が載せられているように、
生活と戦争との密接な関連づけをうかがうことができます。
戦後暫定教科書の時代(戦後暫定教科書・本箱と書類棚・オルガン)
1945年~1947年(昭和20年~昭和22年)
太平洋戦争が終わると、戦争中の教科書は使用禁止となり、新しく平和と民主主義のための教科書が作られるようになりました。
しかし、当時は教科書を作る材料が乏しく、戦時中の教科書の軍国主義的・国家主義的な記述の部分を墨で塗って使用したり、
印刷して折りたたんであるだけのものを自分で切り揃えて使用する「仮り綴じ教科書」を使用していました。
最後の国定歴史教科書「くにのあゆみ」の記述は考古学からはじまり、戦前・戦中のような歴史の記述を廃し、科学的な歴史教育
を目指したものとなっていました。
このような状況のなかから、平和国家・文化国家・民主国家を目指す新しい教育がはじまったのです。
戦後検定教科書の時代(戦後検定教科書・階段踊り場・下駄箱)
1948年~(昭和23年~)
昭和22年(1947)に「教育基本法」・「学校教育法」が制定され、新しく6・3制の義務教育制度が整うと、
「学習指導要領一般編(試案)」が発行され、新しい教育内容が提示されました。
国語教育においては、「聞く・話す・読む・書く」の4つの活動を中心とした教科書が、文部省によって編集されました。
昭和23年(1948)には「教科用図書検定規制」が定められ、戦後の教科書制度が確立しました。
はじめの教科書の検定は、各都道府県の教育委員会の権限となっていましたが、昭和28年(1953)の法改正によって、
文部大臣の権限となりました。
そして、「学習指導要領」は一般的な基準とされ、現在では、このような検定を経た教科書が各学校で使用されています。
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